2011年7月24日日曜日

The 4th of July Weekend




先週末は忙しくも楽しいホリデーウィークエンドでした~

私たちが家族ぐるみでお付き合いしているカン一家がオクラホマから遊びに来てくれました。 アーロンが日本に英語講師としてきた時に、チャリティは英語講師2年目でそこからのお付き合い。 私も高校の時に教会に行き始めてからの関係。 その後マークが来て、チャリティとマークは日本で出会い、確か私たちと彼らは同じ年に結婚したはず…。 日本で英語講師したり、はたまた結婚してからは中国へ渡り孤児院で働いたりした彼らは、すてきな私たちのお友達。

マークとアーロンは全然タイプが違うけど、日本での生活の中でよい友情を築くことができて、それから離れて暮らしていてもとても仲がよい。男の人ってなかなか心を開けずすごく仲のいい友達って少ないと思うんだけど、アーロンにはマークがいて本当によかったなぁと思うのです。

同じ時間を日本で共有した友達はとても大事。 お互い理解し合えて、私も本当に彼らの存在に感謝。 私がここにいるからこそ持つ悩みを、「日本人のいずみだからじゃない、僕らも同じこと思ってるよ」とわかってくれて、共感してくれる。そういう人たち。

お友達に感謝。 私たちをめぐり合わせてくれた神様に感謝。


カン一家が我が家に泊まりに来た初めてのお客様でしたが、私は気合入れすぎて疲れてしまった。 アジアで暮らした彼らに別に食事とか気を使う必要なかったから助かったけど。皿洗いや、次の食事までにキッチンをきれいにして!とかいろいろやってたら疲れたんだな。 まぁもてなすってこんなことよね。 アーロンママがいっつも段取りよくお客をおもてなしする見ててよかったけど、同じようにやろうと思ったら疲れた笑。
お好み焼きや、キムチチャーハンもうまいうまいと食べてくれたし、土曜日はアーロンとマークでグリルして手作りアイスクリームも作ってくれた。 

彼らの5歳の息子とせいちゃんと同じ年の娘は、せいちゃんと仲良く遊んでくれたし、いい子達だったし、本当に楽しい週末だったなぁ~と未だ余韻に浸っております。 金曜の夜から月曜の朝まで滞在した後、彼らはブランソンへ旅立って行きますた~。

次はいつ会えるかな~。 また遊びに来てくれないかな~

画像1:  アーロンとマークの合作アイスクリームと、私のブルーベリー&ブラックベリーカーブラ 一緒に食べると美味~。


画像2:仲良く遊ぶ~。

画像3:お決まり記念撮影。 せいちゃんとCourageは3回トライしてどれも舌出してます。

2011年7月10日日曜日

クリスチャンになって12年目の証

5月31日は旦那の誕生日でしたが、私がクリスチャンになった記念日でもありました。 ここ数週間考えていたことを証として残したいと思います。


6月始めの水曜夜の聖書クラスで、うちの教会の牧師のトニーがレッスンをリードしてくれた。 ある無宗教者かアンチキリスト者かのブログをトニーが読んでいて、このブログの著者は「キリスト教者はクレイジーだ」とか「聖書を信じるなんてナンセンス」だと非難していたそうだ。 どうして信じないか、どうしてそう思うかという著者のTheoryは読んでいてとても内容が薄く、説得力があるものではなかったそうだが、明確な理由なしでキリスト教を批判する人は50年前と比べてもかなり増えている、と言われている。 世の中が「我よければすべてよし」的な風潮に動いているからかもしれない。 そんな世の中でどう伝導していくべきなのか、クリスチャンとしてどうあるべきかということを話し合った。 そして14年前、創世記の話を大真面目に本当だ、と力説されて一笑に付した自分を思い出した。 高校生だった時、初めて聖書というもの自体に触れた。 受講費500円でネイティブと英会話ができると聞き、こんないい話はないと思って教会に行き始めた高校2年の秋、私の先生となったクリスティーナがどのようにこの世が創られたのか、最初の人間アダムからイブが作られたとか言われて、自分もまた「この人たちはこんな科学的根拠のないものを大真面目に信じているのか…」とショックに思い(その時は知らなかったけど、聖書は科学的にもたくさんの裏づけがある) 、またキリスト教は理解できない…と思ったものだった。

「私はキリスト教は必要ない」と言う人は、結局他の何のどの宗教に対しても必要ないと言っているような気がする。 「神」という自分以外の存在に自分をコントロールされたくないと漠然と思うのかもしれない。 誰かからいつも指図されているような気がするのかもしれないし、人は他人からでも命令されることは基本嫌いなものだから。 自分をコントロールするのは自分でいたいと思うのは人間の本質だ。 

日本では多神教崇拝が一般的だが、季節ごとの行事等をちゃんと行い、その時々に違う神仏に拝んでもその神仏たちと人間との関係は薄いな、と思ってしまう。その関係がどうも一方通行のように思えてならない。 これは私がまだ聖書をしらなかった時から思っていたことだ。 何か人間にとって都合の良い感じがするのだ。 何か願う時だけ神様に祈り、叶っても叶わなくてももともと大した思いがその神にあるわけではないので、感謝も落胆もない。 キリスト教の神のように私たちへ聖書を通して事細かく人間の生きる目的、望ましい生き方そのものを語りかけてこないから。 いや、仮に日本の神々たちがキリスト教の神のようだったとしても、少なくとも日本の一般家庭では自分が拝む対象をもっとよく知ろうだとか、子供になぜこの神仏を崇拝するのか(崇拝ではなくとりあえず拝むのか)という深い教育はなされない。

喜んで正月等にお参りに行くのは、そのムードに呑まれて?習慣で?みんなが行くから?本当は恐れから? お参りに行かないよりは行っておいた方が良いから? 結局はそうなると神様に敬意を示すためではなく、護身のためということになるのか?

一般的な日本人の感覚だと、どの神に祈っても同じだから(ご利益の話は別として)、正月は神社で、又は初日の出に拝み、盆は先祖に拝み、厄除けにまたどこかの神社に拝みに行き、小さな1年有効の神様を買う。子供が生まれたら神社へお宮参りに行き、結婚式はキリスト教式、死ぬ時は仏教式となんでもあり。 でもここにキリスト教の神を入れるのはひどく間違っているし、ほとほとおかしい。

なぜならキリスト教の神は、偶像崇拝や多神教崇拝を認めないからだ。ご利益があればどこへでも行ってその神様とやらを拝む人間が、結婚式のムードつくりのためにキリスト教式の式をあげようとしたとろこで、この本物の神はその人たちに祝福をあげたくてもできないのだ。 そして当の人間はそんなことどうでもいいと思っているし、たぶん何も深く考えていない。 

日本で言う宗教行事や習慣を、ただ何も考えずそれだけやっていて幸せになれるのだとしたら、信仰なしにその行動は意味を成すのだろうか。「やることに意義がある」と言う人がいたらそれはただの自己満足だ。 そんな態度で拝まれた神様方が喜ぶのだとしたら、日本はとっくに誰もが幸せになっているんじゃないか? でもそうじゃない。 世の中たくさん悲しい事が起きている。 「信仰は勝利」という賛美歌にある通り、行いだけで物事を見ていたら目に見えない物(存在)を認めることが出来るだろうか? まだ目に見えない明日に希望を持つこともまた明日への信仰で、実は何か違う信仰を必要としている人間たちの生まれつきの習性ではないか。 

人間は完璧な善ではないし、みんな同じでもない。 だから社会は集団生活に支障がないようにルールや制限を設ける。 人は無意識にルールによって支配されることに同調しているにもかかわらず、このただ一人の神の支配を拒む。  クリスチャンとは、不完全なこの人間がその不完善さを認め、だから努力しても埋められない自分の不完全さ(聖書では罪と言う)のためにその負い目を担ってくれる人を必要だと認め、それがイエス・キリストにしかできないから彼を受け入れ、彼の故に神の子供とされた人たちのこと。それだけのことであって、完璧な「良い人」=クリスチャンではない。 受け入れたから、だからこの神様と結ぶ一方通行じゃない関係があるから神様が言う事に従いたい、自分のためではなく神様のために生きたいと思うようになる。 それが信仰の成長というものであって、そしてその成長の速度は個々みんな違う。

聖書を理解するのは難しい。それは当たり前なのだ。 聖書は神様の言葉だからだ。 私たち人間は、人間同士でさえ理解に苦しむ時が多いのに、なぜ 聖書が理解できないと(できるまでは)、クリスチャンになれないと思うのか。 相手を完全に理解するまで友達や恋人になることを待っていたら人生何年あっても足りはしない。 他人を理解することは不可能である人間が、神様をすべて理解することは不可能だ。 でも神様は私たちにわかっていてほしいことは明確に聖書に記している、それは罪の始まり、イエス・キリストの愛と死、そして復活。
神様を信じてみることと、ある人と結婚することとその違いに大差がないと私は思う。 

と書いてはいるものの、自分がクリスチャンでなかった時に通っていた教会の人に、「私は聖書もまだよくわからないので、まだまだクリスチャンにはなれませんよ~」と言ったことがある。 その時はクリスチャンとは何て完璧で良い人たちなんだろうと思っていたからだ。 そしてクリスチャンになることが何か資格のような類のものに思われて、なんだかそれがゴール地点であるかのように思えた。 だからそんなことを言ったんだろう。 教会で会う人たちがみんなそのゴールを通過して余裕があるように見えていたのだ。 でも、聖書の内容など10分の1も理解しないある日、私はクリスチャンになってしまった。 まさにLeap of Faith(理屈抜きで信じてみること)。 神様を信じてみたかった、だから洗礼を受けた。 自分が完璧でないことくらいずいぶん前からわかっていた。 だから私はイエス様を受け入れたのだ。

しかしクリスチャンとして生きることがどういうことなのかを理解し出したのは、洗礼を受けてから1年以上たってからだと思う。 「氷点」や「塩狩峠」で有名な三浦綾子さんがこんなことを書いていた。 「クリスチャンとなり神の光の中を歩みだし、今まで暗闇の中で歩いていて見えなかった自分自身と真っ向から向き合わなくてはいけなくなった」と。 まさに私もそんな感じの体験をした。 頭で理解していた「罪」(自分の自己中心の性質)というものがいろんな形で自分の中に潜んでいることをいやでも分からされる。 私が知らず知らずに求めていた人生の説明書は聖書だった。 聖書という地図を片手に、スタート地点から数歩歩き出したに過ぎないことをある時思い知った。 そして今もゴールに向かって歩んでいる真っ最中だ。

「おまえももう少し大人になれば、人生の何たるかがわかるようになる」とか、「あなたも親になれば、お母さんがどうして今こう言わなくちゃいけないのかわかるわ」なんて親や年配の人に言われたことがあるだろうか。 言われたことがなくても、年を取るごとに子供の時にはわからなかったたくさんのことがわかり、理解できるようになるだろう。

神様とはある意味父のよう。 親のような存在なのだ。 私たちの信仰の成長に応じて、神様は私たちにその時わかっていてほしいことを聖書を通して、毎日を通してその都度教えてくれる。 それが私たちの成長。 聖書を学問のようにどんなに勉強しようとも一般知識として読書しても、イエス様を受け入れ一歩踏み出さない限り結局は何もわからない。信仰なしに成長はないからだ。

娘が1歳になるかならないかの時、よたよたと歩き始めキッチンの引き出しの開け閉めをして遊んでいたことがあった。引き出しを閉める時に指を挟めないようなんどか注意をしてしばらく見ていた。 するとやはり挟めて泣いた。その時私はただ黙って見ていた。 泣きやんだ娘はまた引き出しで遊び出したがもう指を引き出しに挟むことはなかった。

神様は時々自分が一番つらいと思う時にいなくなってしまったような気がする。 でもそんな時こそ神様は私に何かを学んでほしくてじっと見守ってくれているんだとわかるようになった。 アーロンのHIV騒ぎの時に特にそう思った。忍耐して待つこと、今できることをやること、希望を持つこと、そして祈ること。

私は12歳のクリスチャン。 まだまだ若く、人生経験の浅い生傷の耐えない子供だ。転んで、失敗して、そして学んで神様を仰いで起き上がるだけ。聖書を道しるべに自分がわかる範囲で受け入れ、前進するだけ。わからない事だらけだけど、わからないことは先輩に聞き、日々聖書を学び、知っていることは知らない人に伝えたい。完璧な人間でも母でもない私は、娘を全知全能でただ一人の神に導きたいのだ。 そして祈る。   

2011年4月22日金曜日

マリッジセミナーVol.2と私の独り言

セミナー中にカバーした最初の章は、「結婚が壊れる理由」です。

前回の日記にも書いたけど、「結婚した夫婦は常に孤立と一体の間を動いている」と書きました。

結婚式を終えた男女は、2人が本当に一つになったような気がしているようですが実は自分自身がスタートで相手がいるところがお互いゴールになっていることに気付いてないことが多いんじゃないでしょうか。

何が夫婦一体になるための障害になるかを理解しておけば、そうならないように努力ができると思う。

障害1) この世の中は我慢をしないで自我を通そうという態度が蔓延している時代である。 2人の他人が一体になろうとするところに、自我を通そうとすることばかりしていたら、2人に一体はない。人間はみんな違うから。 みんながみんな同じだったら、個性も顔も何もかも同じだったらこんなつまらない世の中はないでしょう。 だからみんな人は違うように創造されているのです。そこで調和が取れるよう努力することに人生の意味がある。 人は一人では生きられないからね。

違いが明確に出るのはこのようなことが影響してのことだそうで、価値観、宗教、金銭感覚、家族背景、過去の恋愛経験、過去の苦い経験等だそうです。

なんだかすべてが繋がっていないようで繋がっている気がします。価値観が違うから、金銭感覚も違ってくるだろうし、たとえばさっぱりした家族関係のなか育ってきた人は、相手の家族のべったり仲良し家族関係の中に入りたがらないとか…そういうこともあるだろうね。 

障害2)お互いの感情の表し方の温度差、性生活の温度差等も結婚したら「こんなはずじゃなかった…」なんて驚くエリアだとも思われるということです。

障害3)あと夫婦の役割分担に対するお互いが思い描いていた想像図の違い等がちがいすぎるとまた二人の考えが同じになるように要努力。
それは小さい点から大きい点までいろいろ(家事、愛情表現、性生活、将来設計)です。

あと、これら以前の問題で、どんな理由で結婚を決めたかということものちのち結婚生活の障害になってくることがあるとも言ってました。
金銭的な理由、ただ家を出たかった等挙げてました。 でもだれもがそれで離婚に終わるわけではないです。 理由はどうあれ、結婚後に「結婚」ということがどんなに重要なことなのか、相手に愛情を注ぐことを学べば自分もまた満たされることを学ぶこともあるのですから。自分が大事だと思うことに人は努力するもの。 安易に結婚と離婚を考えてはいけない。 満たされた結婚は大事なことなのだから努力しましょう、だそうです。


細かく書くといろいろ本当にあるんだけど、重要なのは自己中心にならないということです。 上にも書いたけどみんなが自分勝手に動いていたら大小かかわらずどんな社会も調和がとれません。 お互いがお互いのためにお互いを中心にする努力をすることで調和が取れてくる。 でもお互いが相手に求めるもの、レベルの程度、日々変わります。人間は感情的な生き物だから、いつも同じじゃない。 自分の機嫌によって相手の行動がどうでもよかったり、気に障ったりということが日々あると思います。

自分がイライラしている時とか普段だったら特に気にしないのに、旦那が言った何気ない一言に過剰反応したりとか、そんな感じ? 

結婚があってこそ家族という社会がうまく回るとも言ってました。
だから、基本的にに子供(や自分の両親とか?)を旦那より優先させてはいけないそうです。 子供がいれば、旦那はどうでもいいわなんて言う人もよくいます。 それでは子供にもいい影響がないのです。 父親を敬う母親の態度を見て、子供も尊敬する心を見に付けます。 母親が父親を低く扱っては、子供も将来そういう結婚生活を送るかもしれません。 家族という小さな社会で子供たちは、家族の枠を超えて生活していくための基本的なことを学んでいることをいつも心に留めておくことが大事だそうです。 亭主関白な家庭が理想ではなく、父親が母親を愛する程度を見せ、母親もそれに応え、最終的な権威は家族の中で誰が持っているかをはっきり見せてあげることが大事なんだそうです。そこからルールを守ること、権威に従うことを学ぶんです。

結婚って奥が深い。 自分の結婚観がいろんな影響を受けて形成されてきたように、自分の行動もまた次の世代に影響を与えていく。 となると本当に自己中ではやっていられませんね。 


こうして客観的にセミナーで学んだことだけど、いろいろ思い当たる節があって反省しました。 

結婚してすぐのころ、早くに結婚したこともあってなんだか周りの友達のほうが人生を楽しんでいる気がして悲しくなって旦那にあたったことがあった。 「私の人生もう先が見えた…」と思ったもんです。 すばらしい人生の始まりであったのに…そんなこともわからずに回りと比較して悲観してた。 アホです。青かったあたす…。

結婚して半年してアメリカに引っ越して大学生活スタート。 慣れない結婚生活、慣れないアメリカ生活、うまく話せない英語=ついていけない学校生活に爆発して鬱になりさらに旦那を苦しめました。 オクラホマにいた3年間は実は最後の1年しかあまり記憶がない。 たぶん余裕が出るまで必死だったんだと思う。 親に学費出してもらってたし、成績だけはキープしようと勉強三昧だったな。 勉強楽しかったけど、今だから言えることよね。

なもんで、自分のことしか考えられなかったし理想の夫婦生活からは程遠い3年間だったに違いない。 かわいそうなのは私だけじゃなかったのにね。 旦那をいたわることなんてあまりなかったと思う。 

離婚してないのが奇跡か…。 いや、クリスチャンの私たちにはそんな選択肢はない。離婚しちゃう人もいるけど、一度神様の前で結ばれたのなら本気でその結び目を自らほどいてはいけないのだと私は思う。それほど不可触の神聖な結び目なのだから。

 

2011年4月5日火曜日

マリッジセミナー

先週末は、金曜の夜から日曜の午前中にかけてブランソンのヒルトンホテルで行われたマリッジセミナーに行ってきました。

クリスチャンベースのこのセミナー、たくさんの御言葉と共に多方面から結婚とは、愛とはどういうことなのかを勉強してきました。

参加のきっかけは私たちが籍を置く教会。 そのなかの一組のカップルが一度参加したことがあり、大変勉強になったということを教会のリーダーである長老たちにお話したのでした。 クリスチャン同士でだって離婚は悲しいけどたくさんある中、どうにかその歯止めになればと、そして良い夫婦関係を保っている人たちがさらに恵まれるようにと、セミナー代+ホテル一泊分の料金を教会が負担してくれて、ぜひみんなに参加するようにと勧めてくれたのです。

教会からは41組のカップル(結婚を考えている未婚の男女もいた)が参加できたのでした。

補助がなかったらとてもじゃないけど参加できなかった… ありがたいことです。 おかげでアーロンと2人で実りある週末を過ごすことができたのでした。

時間があるときにいろいろ学んだことをここでシェアしたいなって思います。

まずこの聖句、
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」  エフェソの信徒への手紙5:30~31

父母を離れてというところがミソです笑。

結婚した男女は常に「一体となる」状態と「一人孤立する」状態との間を浮遊している。 さて、あなたはどっちの状態に近いでしょうか。

一体となるということはお互いがお互いを完全に満たしあい、どちらが欠けても成り立たない、そして調和の取れた状態のことのようです。

そうなるには、愛が必要。 愛を熟成させるには努力が必要。愛が何なのかわからない方は聖書を読んでもらえればわかるかな…。

だれも生まれてすぐの赤ちゃんが一人前の人間になれないのは知っている。 社会人になったからってすぐになんでも仕事ができるようになるわけじゃない。 キッチンに立ったからといってすぐにお料理上手になるわけじゃない。 結婚したからといって、すぐに夫婦の足並みが揃うわけじゃないのです。 結婚生活自体よりも結婚式や披露宴&ハネムーンのプランを立てることに重きを置いちゃう私たちは、結婚生活がデートしている時の延長のように考えている場合が多いかもしれない。 淡い期待はほどほどにして、こうなるであろう現実を考え見据えて準備しておくのが、スタートでつまずかないカギ。

足並みをそろえる努力なしに、一体となる結婚生活はありえない。

よく「生活観の違い」や「すれ違い」を理由にスピード離婚してしまう芸能人いるよね。 あれって、結婚してから自分の生活ペースを相手に合わせる努力をお互いにできなかった結果じゃないですかね。 そんな簡単に離婚しちゃっていいのかって思う。だって、その努力さえ自分の仕事より最優先していれば心満たされた結婚生活が続けられたかもしれないんだから。 心満たされたっていうのは、相手の心を満たしてあげることで自分も満たされるものだということも言ってましたな。 

とまぁ私の考えはほどほどにして、セミナーの内容を何回かにわけてシェアできたらいいなぁと思います。

セミナー中はお天気がよくてサイコーですた
ヒルトンは一番新しいアウトレットモールから道挟んですぐのところにあって、ちゃんとセミナースケジュールには、土曜日はブランソンというすてきな観光地を利用してデートナイトの時間を持つこと!とまでありました。

ある友達は素敵なレストランを予約してたり、ある人たちはライブショーを見に行ったり…。 

実は金曜の夜はアーロンは仕事の関係で間に合わず参加できなかったんだよね。みんなカップルで参加してるのに、金曜日は一人でセミナー聞いてたからちょっと寂しかった私笑。 なので彼は土曜の深夜1時にホテルについて、疲れたまま土曜日のセミナーに参加。 私も妊婦であまりハードなスケジュールは困るので、土曜の夜は食事して川沿いを歩いてホテルまで戻り、早々に休みました。 


結婚10年目にして、思いを新たに次の10年を旦那とがんばろうと思わせてくれたこの機会を与えてくれた神様、私の教会に感謝。 

2010年12月13日月曜日

Singing Seichan



She can sing lots of songs now in English and Japanese. 歌を歌うのが大好きなせいちゃん。 英語でも日本語でも上手だよ。

2010年10月18日月曜日

Great singers.

せいちゃんの誕生日パーティの後、お庭でみんなで遊んでいた時の画像。 ママ、サンディ、キャリーの絶妙な歌声をお楽しみあれ。

Celeste's B-day Countdown 聖歌の2歳の誕生日までのカウントダウン!

Lilypie Second Birthday tickers