5月31日は旦那の誕生日でしたが、私がクリスチャンになった記念日でもありました。 ここ数週間考えていたことを証として残したいと思います。
6月始めの水曜夜の聖書クラスで、うちの教会の牧師のトニーがレッスンをリードしてくれた。 ある無宗教者かアンチキリスト者かのブログをトニーが読んでいて、このブログの著者は「キリスト教者はクレイジーだ」とか「聖書を信じるなんてナンセンス」だと非難していたそうだ。 どうして信じないか、どうしてそう思うかという著者のTheoryは読んでいてとても内容が薄く、説得力があるものではなかったそうだが、明確な理由なしでキリスト教を批判する人は50年前と比べてもかなり増えている、と言われている。 世の中が「我よければすべてよし」的な風潮に動いているからかもしれない。 そんな世の中でどう伝導していくべきなのか、クリスチャンとしてどうあるべきかということを話し合った。 そして14年前、創世記の話を大真面目に本当だ、と力説されて一笑に付した自分を思い出した。 高校生だった時、初めて聖書というもの自体に触れた。 受講費500円でネイティブと英会話ができると聞き、こんないい話はないと思って教会に行き始めた高校2年の秋、私の先生となったクリスティーナがどのようにこの世が創られたのか、最初の人間アダムからイブが作られたとか言われて、自分もまた「この人たちはこんな科学的根拠のないものを大真面目に信じているのか…」とショックに思い(その時は知らなかったけど、聖書は科学的にもたくさんの裏づけがある) 、またキリスト教は理解できない…と思ったものだった。
「私はキリスト教は必要ない」と言う人は、結局他の何のどの宗教に対しても必要ないと言っているような気がする。 「神」という自分以外の存在に自分をコントロールされたくないと漠然と思うのかもしれない。 誰かからいつも指図されているような気がするのかもしれないし、人は他人からでも命令されることは基本嫌いなものだから。 自分をコントロールするのは自分でいたいと思うのは人間の本質だ。
日本では多神教崇拝が一般的だが、季節ごとの行事等をちゃんと行い、その時々に違う神仏に拝んでもその神仏たちと人間との関係は薄いな、と思ってしまう。その関係がどうも一方通行のように思えてならない。 これは私がまだ聖書をしらなかった時から思っていたことだ。 何か人間にとって都合の良い感じがするのだ。 何か願う時だけ神様に祈り、叶っても叶わなくてももともと大した思いがその神にあるわけではないので、感謝も落胆もない。 キリスト教の神のように私たちへ聖書を通して事細かく人間の生きる目的、望ましい生き方そのものを語りかけてこないから。 いや、仮に日本の神々たちがキリスト教の神のようだったとしても、少なくとも日本の一般家庭では自分が拝む対象をもっとよく知ろうだとか、子供になぜこの神仏を崇拝するのか(崇拝ではなくとりあえず拝むのか)という深い教育はなされない。
喜んで正月等にお参りに行くのは、そのムードに呑まれて?習慣で?みんなが行くから?本当は恐れから? お参りに行かないよりは行っておいた方が良いから? 結局はそうなると神様に敬意を示すためではなく、護身のためということになるのか?
一般的な日本人の感覚だと、どの神に祈っても同じだから(ご利益の話は別として)、正月は神社で、又は初日の出に拝み、盆は先祖に拝み、厄除けにまたどこかの神社に拝みに行き、小さな1年有効の神様を買う。子供が生まれたら神社へお宮参りに行き、結婚式はキリスト教式、死ぬ時は仏教式となんでもあり。 でもここにキリスト教の神を入れるのはひどく間違っているし、ほとほとおかしい。
なぜならキリスト教の神は、偶像崇拝や多神教崇拝を認めないからだ。ご利益があればどこへでも行ってその神様とやらを拝む人間が、結婚式のムードつくりのためにキリスト教式の式をあげようとしたとろこで、この本物の神はその人たちに祝福をあげたくてもできないのだ。 そして当の人間はそんなことどうでもいいと思っているし、たぶん何も深く考えていない。
日本で言う宗教行事や習慣を、ただ何も考えずそれだけやっていて幸せになれるのだとしたら、信仰なしにその行動は意味を成すのだろうか。「やることに意義がある」と言う人がいたらそれはただの自己満足だ。 そんな態度で拝まれた神様方が喜ぶのだとしたら、日本はとっくに誰もが幸せになっているんじゃないか? でもそうじゃない。 世の中たくさん悲しい事が起きている。 「信仰は勝利」という賛美歌にある通り、行いだけで物事を見ていたら目に見えない物(存在)を認めることが出来るだろうか? まだ目に見えない明日に希望を持つこともまた明日への信仰で、実は何か違う信仰を必要としている人間たちの生まれつきの習性ではないか。
人間は完璧な善ではないし、みんな同じでもない。 だから社会は集団生活に支障がないようにルールや制限を設ける。 人は無意識にルールによって支配されることに同調しているにもかかわらず、このただ一人の神の支配を拒む。 クリスチャンとは、不完全なこの人間がその不完善さを認め、だから努力しても埋められない自分の不完全さ(聖書では罪と言う)のためにその負い目を担ってくれる人を必要だと認め、それがイエス・キリストにしかできないから彼を受け入れ、彼の故に神の子供とされた人たちのこと。それだけのことであって、完璧な「良い人」=クリスチャンではない。 受け入れたから、だからこの神様と結ぶ一方通行じゃない関係があるから神様が言う事に従いたい、自分のためではなく神様のために生きたいと思うようになる。 それが信仰の成長というものであって、そしてその成長の速度は個々みんな違う。
聖書を理解するのは難しい。それは当たり前なのだ。 聖書は神様の言葉だからだ。 私たち人間は、人間同士でさえ理解に苦しむ時が多いのに、なぜ 聖書が理解できないと(できるまでは)、クリスチャンになれないと思うのか。 相手を完全に理解するまで友達や恋人になることを待っていたら人生何年あっても足りはしない。 他人を理解することは不可能である人間が、神様をすべて理解することは不可能だ。 でも神様は私たちにわかっていてほしいことは明確に聖書に記している、それは罪の始まり、イエス・キリストの愛と死、そして復活。
神様を信じてみることと、ある人と結婚することとその違いに大差がないと私は思う。
と書いてはいるものの、自分がクリスチャンでなかった時に通っていた教会の人に、「私は聖書もまだよくわからないので、まだまだクリスチャンにはなれませんよ~」と言ったことがある。 その時はクリスチャンとは何て完璧で良い人たちなんだろうと思っていたからだ。 そしてクリスチャンになることが何か資格のような類のものに思われて、なんだかそれがゴール地点であるかのように思えた。 だからそんなことを言ったんだろう。 教会で会う人たちがみんなそのゴールを通過して余裕があるように見えていたのだ。 でも、聖書の内容など10分の1も理解しないある日、私はクリスチャンになってしまった。 まさにLeap of Faith(理屈抜きで信じてみること)。 神様を信じてみたかった、だから洗礼を受けた。 自分が完璧でないことくらいずいぶん前からわかっていた。 だから私はイエス様を受け入れたのだ。
しかしクリスチャンとして生きることがどういうことなのかを理解し出したのは、洗礼を受けてから1年以上たってからだと思う。 「氷点」や「塩狩峠」で有名な三浦綾子さんがこんなことを書いていた。 「クリスチャンとなり神の光の中を歩みだし、今まで暗闇の中で歩いていて見えなかった自分自身と真っ向から向き合わなくてはいけなくなった」と。 まさに私もそんな感じの体験をした。 頭で理解していた「罪」(自分の自己中心の性質)というものがいろんな形で自分の中に潜んでいることをいやでも分からされる。 私が知らず知らずに求めていた人生の説明書は聖書だった。 聖書という地図を片手に、スタート地点から数歩歩き出したに過ぎないことをある時思い知った。 そして今もゴールに向かって歩んでいる真っ最中だ。
「おまえももう少し大人になれば、人生の何たるかがわかるようになる」とか、「あなたも親になれば、お母さんがどうして今こう言わなくちゃいけないのかわかるわ」なんて親や年配の人に言われたことがあるだろうか。 言われたことがなくても、年を取るごとに子供の時にはわからなかったたくさんのことがわかり、理解できるようになるだろう。
神様とはある意味父のよう。 親のような存在なのだ。 私たちの信仰の成長に応じて、神様は私たちにその時わかっていてほしいことを聖書を通して、毎日を通してその都度教えてくれる。 それが私たちの成長。 聖書を学問のようにどんなに勉強しようとも一般知識として読書しても、イエス様を受け入れ一歩踏み出さない限り結局は何もわからない。信仰なしに成長はないからだ。
娘が1歳になるかならないかの時、よたよたと歩き始めキッチンの引き出しの開け閉めをして遊んでいたことがあった。引き出しを閉める時に指を挟めないようなんどか注意をしてしばらく見ていた。 するとやはり挟めて泣いた。その時私はただ黙って見ていた。 泣きやんだ娘はまた引き出しで遊び出したがもう指を引き出しに挟むことはなかった。
神様は時々自分が一番つらいと思う時にいなくなってしまったような気がする。 でもそんな時こそ神様は私に何かを学んでほしくてじっと見守ってくれているんだとわかるようになった。 アーロンのHIV騒ぎの時に特にそう思った。忍耐して待つこと、今できることをやること、希望を持つこと、そして祈ること。
私は12歳のクリスチャン。 まだまだ若く、人生経験の浅い生傷の耐えない子供だ。転んで、失敗して、そして学んで神様を仰いで起き上がるだけ。聖書を道しるべに自分がわかる範囲で受け入れ、前進するだけ。わからない事だらけだけど、わからないことは先輩に聞き、日々聖書を学び、知っていることは知らない人に伝えたい。完璧な人間でも母でもない私は、娘を全知全能でただ一人の神に導きたいのだ。 そして祈る。